御 由 緒 と 歴 史

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藤崎八旛宮の歴史

承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願し、石清水八幡大神を国家を護る神として茶臼山(現在の藤崎台球場)にお迎えしたことを始まりとしております。社名には「幡」ではなく、後奈良天皇宸筆の勅額に由来する「旛」の名が使われており、その姿は現在でも「大鳥居」に見ることができます。
戦国時代などには戦場となり、荒廃した時期もありましたが、朝廷から万民に至るまで広く信仰を集め、熊本総鎮守として崇められるようになっていきました。戦国から江戸時代には藩主となった加藤家、細川家により手厚く庇護されましたが、維新後の西南戦争で社殿が焼失。現在の井川渕町への遷宮が行われました。
その後、明治、大正、昭和、令和へと時代は変わりましたが、藤崎八旛宮は創建以来の変わることのない願いの心と共に、熊本の平安を見守り続けています。

詳しくは下の当宮資料文章を御覧ください。難しい言葉もありますが、これも伝承すべき神社文化として考え、原文のまま掲載しています。

ご由緒と「旛」の名

藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まる。鎮座の日、勧請の勅使が藤の鞭を3つに折って、3ヵ所に埋めたところ、この地に挿した鞭から、やがて芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられている。(藤崎八旛宮 社記による)

明治以降の歴史

明治維新後、同10年(1877年)に西南の役が勃発し、熊本城と隣接する藤崎台にあった社殿は、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、現在の井川渕町に移転。翌11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営を見た。
大正4年国幣小社に加列。昭和10年御鎮座1000年を迎えた際に、国幣社にふさわしい造営計画を設定し、国費の補助と氏子崇敬者の浄財とによって新たな造営に着手した。しかし、間もなく戦時となり、工事ははかどらず未完成のまま終戦となったため、戦後は本殿以下の社殿、次第に腐朽し尊厳を損なう状態となった。よって、昭和60年の御鎮座1050年式年大祭を目処に、修復整備並びに新規施設の諸工事を進め、逐次竣成して今日の壮麗を拝するに至った。平成22年4月1日には、畏き辺りより御幣帛を賜り、應神天皇1700年式年大祭が斎行された。この記念事業として、向拝及び拝殿の漆塗りかえ工事、その他必要な事業がすすめられている。
また、この事業に続いて、本殿漆塗りかえ工事はじめ社地の整備が御鎮座1100年の式年大祭に向けて計画されている。

御祭神

【應神天皇|おうじんてんのう(一宮)】
應神天皇は、最高位の武神であり、武運長久・勝利の神である。
また、日本に大陸の文化を輸入して文化国家の基礎を築かれた神で、文化先駆・開発・諸業繁栄・国家鎮護の神であり、さらには、混乱を乗り越え誕生、即位した経緯から、出世開運の神でもある。

【住吉大神|すみよしのおおかみ(二宮)】
住吉大神は伊邪那岐命いざなぎのみことが、禊みそぎをされたとき出現された、罪や穢つみけがれを祓う 厄祓いの神であり、また海上渡航安全・交通安全の神である。

【神功皇后|じんぐうこうごう (三宮)】
神功皇后は、(一宮)應神天皇の御母神であって聖母八幡とも称し、母性愛樹立の神として、子宝・安産・育児に霊験あらたかな神である。

本殿の中央に、主祭神の應神天皇、向かって右に、住吉大神。向かって左に、神功皇后の御三神を奉齋尊崇して藤崎八旛大神と仰ぎ、その御神威を讃えまつる。